口はひとつ、目と耳はふたつ

言いたいことがあるのだったら、その二倍は人の話を聞き、まわりを見ましょう、ということなのだろう。

わたしが自助グループのミーティングに出席し始めた頃は、「何かを喋らなければいけない」と緊張してばかりだった。少し慣れてくると、今度は愚痴や不満を吐き出したくて仕方なかった。人の話が耳に入りだしたのは、しばらく経ってからのことだ。

それにつれて、ミーティング場は「自分の膿を出すところ」から、「人のパワー(またはときどき毒気)を一緒に持って帰る(または持って帰ってしまうところ)」に変わってきた。
「わたしはあの人とは違う」と思っていたのが「あれはわたしの過去の姿であり、同時に未来の姿かもしれない」と感じるようになった。

わたしたちの五感は、外の世界を認識するためにあるのだろう。今までのわたしは、自分の内面や過去を見つめようとして、ひたすら自分の頭の中で「ああでもない、こうでもない」と考えてばかりいた。

ほんとうの自分とやらがどんなものなのかまだよくわからないが、とにかく今の時間を大切にしていきたい。

吐く辛さ、吐かない辛さ

やけくそになって食べて吐いて、すさまじい自己嫌悪にさいなまれるのは辛い。「もう二度とこんな思いはするまい」と、いったい何度決心したことだろう。そうやって我慢するのも辛くて、その辛さに耐え切れず、また大量の食べ物を買い込んでしまう、そんなことの繰り返しだった。

一度身についてしまった習慣を変えるのは、苦しいことだ。
わたしを過食へと駆り立てるものは、おもに不安と怒りだ。これらは決してわたしの心の中から消えてなくなることはないだろう。でもそろそろ安易に逃げてばかりはいられない。

理不尽な思いをすることは沢山ある。どう考えても、わたしの怒りは「無理もない」と賛同してほしいし、それが当たり前だと思うことがある。

しかし、わたしはおそらく、不安や怒りに対する自分へのブレーキが効かないのだ。その証拠に、相手を攻撃しなければ今度は「気晴らし」を口実に自分自身を傷つけてしまう…過食嘔吐というかたちで。

以前、職場の人から声をかけてもらったことがある。
「最近、調子が良くなさそうだけど、もしかして職場の人間関係が原因じゃないの?」

その人は、わたしが苦手としている人と仲が良かった(そう思い込んでいた)。「あなたのことを○○さんから(その「お局様」)から色々聞いたのだけれど」。良い内容ではないことは容易に想像がついた。

「一度、声をかけようかと思っていたけれど、あの部屋じゃ話ができないしね。なにか心配ごとがあったら、いつでも来なさい。」

彼女は話を鵜呑みにせず、事情を察してくれていたのだ。

私が怒りをぶつけなくても、どこかでわたしを見ていてくれる人、理解してくれる人は必ずいる。そう実感できて、わたしは涙が出そうになった。

「ありがとうございます。」

以前は、何か言葉を発したくても、それが喉のあたりで止まってしまっていた。事実、喉がつっかえたような、重苦しい感触に不愉快になったものだ。

今は、少しずつ、声に出す練習をしている。わたしが変わってゆけば、周りもきっと変わる、そう信じて。

ありがとう。

昨日までの日記を読み返して、「またえらそうなことを書いているな」と反省してしまった。

なんとか、今は過食症に振り回されずに済んでいるけれど、これも一人ではとうてい続かないだろう。

現在、私はアルコール依存症の人たちの自助グループに参加している。年齢や生活環境や症状の程度、そしてものの考え方も本当にさまざまだが、「飲まなくても幸せになれるような生き方をしたい」という願いは同じである。
参加してしばらくの間は、まだゲーゲーとトイレに吐いていたのだが(汚くて御免)、長い間飲まずに生活している人たちを見ていて、少しずつ変わることができた。私が、もっとこの人の話を聞いてみたいなと思う人は、やっとの思いでつかんだ命綱を、一人でも多くの人に知らせて、その手に握らせたいと懸命に活動されている。あるいは、表面上は弱みを見せていないようでも、心の中で必死に誘惑と戦っている。

そんな人たちを見ていて、吐くのが面倒くさくなってしまったのだ(表現が悪いかな)。

だから、わたしが泣かないでいられるのは、みんなのおかげなのです。

口実

過食症になって身に付いたのは、言葉巧みな言い訳だった。

食べ吐き自体、やはり自分自身でも異常な行為だと思っていた。しかし、たとえ歪んだストレス発散の方法とはいえ、そうでもしなければやっていられなかった。

このジレンマを解消するために、ありとあらゆる理由を考えた。

「自分のお金でやっていることで、人に迷惑をかけてはいない」

「ムシャクシャしたことがあった、これはやけ食いのほんの延長だ」

「過食でもしないとやっていられないし、自分を責めても仕方ない。」

振り返ってみて、我ながらよく生き延びてこれたものだと思う。あの頃の自分を否定するつもりはない。

 だけど、私は「自分にとって本来の、本当に気持ちいいこと」が何なのかという判断を失っていた。

他人に迷惑をかけていない、と言い張っていた自分へ。
一番深く傷つけたものがある。

それは自分の身体と心だ。

花冷え

休日にもかかわらず、朝早く、それもスッキリと目が覚めてしまった。仕事がある日も、いつもこんなにさわやかな気分で居られたらいいのに、自分でも苦笑いしてしまう。

お昼に自転車で外へ繰り出したが、昨日までとはうってかわって、風が強く冷たい。咲きかけていた桜の花もすくんでしまったようだ。それでも空はやわらかな色で、それを映す川面もおだやかで、ペダルにかける足にも自然と勢いがついた。

こうして、景色を眺める余裕が出てきたことが、本当にうれしい。

私の病気や性分をどうにかして克服してやろうと必死になった時期もあったが、でも疲れ果てて、結局前よりもずっとひどくなるばかりだった。

健康な人からすれば、ほんの些細なことに対しても、感謝を感じずにはいられない。そういう意味では「病気になって良かったこと」なのだが、だからといってあんな体験は、もう二度としたくない。

風の向きを変えることはできない、とミーティングで使う本のどこかに書いてあった。

受け入れること、そして、今の心の安定は決して自分だけで保っているわけではないことを忘れないようにしたい。

オーバーイート

「この人たちと、私と、いったい何処が違うのだろう?」

テレビで「早食い選手権」の類いの番組を見ていて、つくづく思う。

わたしは、食べることが好きだ。
しかしいつからか、本能の扱い方を誤ってしまった。

もし、ダイエットだけのせいならば、今ごろはほとんどの女性が摂食障害に陥っているはず。私も他の人みたいに、お菓子を「たしなむように」食べられたらいいなと思うことがある。でも、それはできないだろう。なにせ私は10年以上、人生の半分以上を過食嘔吐に依存してきたのだから。
これ以上病気に人生を乗っ取られてしまわないように、今は必死でミーティングにしがみついている。

ここでは私の過去や、現在のことをつらつらと書くだけだ。でも、もしかしたらかつての私のように、自己嫌悪にうちのめされてどうにもならなくなっている人に「自分だけじゃなかったんだ」と思ってくれる人が一人でもいたらうれしい。そんな人の助けになれればうれしい。

そう思って、この日記を書き始めることにした。