30年ぶりに思いだした話

  • 2013.05.27 Monday
  • 23:42
私が実家を出たのが平成元年。現在は母のくつろぎの場となっている私の部屋ですが、私物は捨てずにおいてくれています。そのせいで、四半世紀も経つと机や本棚がまるでタイムカプセルのようになっています。

この前帰省した時のこと。ためしに引き出しを開けてみたら、ビニール袋に保管された新聞の切り抜きが出てきました。見知らぬ人の名前が記事の真ん中に記されています。本文を読み始めて、ようやく事のてんまつを思い出しました。

それは私が中学生の時、新聞社に投稿した短編小説の切り抜きでした。「これ、誰?」と思った名前は、私が一丁前に考えたペンネームだったのです。

我が家では「引っ越しをしたときに最初に営業に来たから」という理由だけで某全国紙の朝刊を購読していたのですが、若い子向けの読者投稿欄が週末限定で設けてありました。投稿者の住所が九州と山口に限られていたように思いますので、おそらく地域ごとの企画だったのでしょう。

紙面の上半分ぐらいのスペースをさいて、おおむね小学校高学年〜高校生ぐらいまでの世代からの投書やイラストが掲載されていました。学校での人間関係のこと、進路や校則への疑問、不満など、今時の若い子とさほど変わらない(そして今思えば、翌週以降も盛り上がりそうな)話題が取りあげられていました。匿名制なのは現代のネット掲示板でも同じでしたが、担当者のチェックが入ること、なにより伝達手段がハガキか封書=郵便によるやりとりでしたから、いまどきの炎上騒ぎに比べたら、論争が起きてもしれたものでした。

ある時、「短編小説を募集します」という新しい企画が始まりました。私はそれに応募したのです。一週間ぐらいで書きあげました。応募条件には400字詰め原稿用紙4枚程度とありましたが、少しオーバーしてしまいました。

ポストに投函したものの音沙汰はありません。「やっぱりボツか」とあきらめた頃、自宅の電話が鳴りました。電話に出た母が少々ギョッとして「○○新聞の××本社からだって!」と言って私に受話器を向けました。

私の投稿した小説を近いうちに掲載したい。ただしそのまま載せるにはちょっと長いので、文章を削って原稿用紙4枚以内に収めてもらえないか…という連絡でした。

数日して原稿が私の手元へ返送されてきました。せっかく採用されることになったのに手直ししなければいけないのが不本意でした(この頃から我が強かった)。どこも削るところなんかないじゃん!と思いつつ、しぶしぶ添削して新しい原稿用紙に書き写し、封筒につめて再びポストへ入れました。

その後も、担当の方とは何度か電話でやり取りをしました。母は最初に事情を説明されたようで、以降は私に取り次ぐだけで、何も口を挟んできませんでした。

書きなおしたけれども、なかなかOKは出ません。今度は具体的に文章を電話口で読みあげられ、「この部分はストーリーとは関係の無い描写だと思うんだけどねえ…」と言われました。が!生意気にも私は助言を聞き入れませんでした。どの箇所だったのかは、今回読みかえしてみてすぐに分かりました。うん、たしかに無駄な言葉です。指摘に間違いはありませんでした。
当時の担当者の本職が記者だったのかどうかは分かりませんが、いずれにしろ新聞社におつとめなのですから言葉のプロです。そんな方からアドバイスが貰えるという絶好の機会だったのにも関わらず、かなりゴネてしまったのを思い出しました。申しわけなかったなあ。

さて、当日の朝。
はやる気持ちをおさえつつ新聞をめくっていきました。自分の文章が活字になっているのを実際に見てみると、うれしいというよりも不思議な気持ちでした。新聞に自分の作品が載ったことは、友達には知らせませんでした。気はずかかしいのもあったし、クラスに広まってあれこれ批評されるのが嫌だったのです。

私は子どものころから作文は得意でしたが、だからといって創作のセンスはないし、物書きになりたいと思ったこともありませんでした。それなのになぜあの時に限ってストーリーが浮かんだのか、しかも投稿する気になったのか…今となってはどうにも思いだせません。

根気よく対応して下さった担当の方は、おだやかな口調の男性の方でした。声の記憶をたどるに、現在の私よりも年上だったように感じられます。自分の娘や息子と同世代の子ども達の投書をあつかっていたのかもしれません。今もお元気でしたら70代半ばぐらいかなあ。

このブログは自分が書きたいことを書きたい時に書いているだけですが、公開している以上は分かりやすく人に伝えたいものです。あの時に頂いたアドバイスを30年越しで生かさないとなーと思いました。

やりたいことの取捨選択

  • 2013.05.16 Thursday
  • 12:22
過食の症状が落ち着いてしばらく経った頃、やみくもに目標やスケジュールをたてまくったことがありました。いままでの病気の時期がムダに思えてきて、過ぎてしまった時間と使えたはずのエネルギーをいっぺんに取り戻したかったのです。新しいノートを買ってきて、それまで病気のためにできなかったことや新しくやりたいと思い立ったこと、将来の目標からその日のうちに片づけてしまいたいことなどをどんどん書き出していきました。

実行できたのは、わずかしかありませんでした(それでもミーティングに参加し続けたことと、ジム通いが5年以上も続けられたことは良かったです)。体力が回復していなかったせいもありますが、いちばんの原因は現実に使える時間や自分の身の丈を考えずに用件を詰めこみ過ぎたことでした。

思い返せば学生の頃から計画を立てることは好きでした。それも、やりたいことというよりかは「やらなくちゃ、しなくちゃ」と何かにせかされていたかのように。ひとたび立てた計画は何としてでも達成すべきと思いこんでいました。

「途中でくじけてしまったけど、完ぺきにできなかったけど、そんな自分もOK、受け入れましょう」というようなアドバイスを本で読んだことがあったので、そんなものかと発想の転換をはかったりもしました。自己嫌悪におちいってヤケになるよりかはましでしたが。

しかしある時、「どうも物心ついたころから、そして大人になってからも、何度も何度も同じパターンを繰り返している」と気がついたのです。「そんな私でもオッケー」と思うだけではなくて、もう一歩踏み込んで、胸に手をあてて自分の行動や動機を確かめたほうがよいのではないだろうか?

たとえば、私はストレス解消も兼ねてジョギングやウォーキングをしています。計画通りにメニューをこなしていて、膝や腰に違和感を感じたとします。

「努力している私を受け入れよう!少し休んでまた走り出せばいいや!」と思い、休養をとって再開します。その後うまくいけばいいのですが、もし故障を繰り返すようであれば「こんな自分でもオッケー、受け入れよう」だけでは、いずれ走るのが嫌になるでしょう。致命的な怪我をしてしまうかもしれません。自分の身体を大切に扱う人であれば、目標や練習メニューが私の体力に合っていないのかも?私の走り方が脚に負担をかけているのかも?と考えます。痛みがおさまらなければ病院に行って診察も受けるでしょう。

「自分の意思で決めたこと」には、不具合を感じても無理やりにでも押し通そうとするところが私にはあったのです。自分で決めたことは自分でコントロールできるはずだと思い込んでいる限りは「こんな私じゃダメだ」とネガティブになろうが、「こんな私でもオッケー」とポジティブに考えようと努力しようが、それは車を運転していてハンドルを右に切るか左に切るかの違いのようなもので、まずは自分が安全に運転できるよう速度を落とすのが賢明です。いっそエンジンをとめて休息したほうがいいことだってあるかもしれません。

今は「本当に自分がやりたいことなのか?」を一番に考えるようにしています(当たり前ですが、家賃の払いこみとか公共料金の支払いとか、あいさつをするとか、約束したことは守るとか、そういう事柄はいくら自分が気が向かなくても、大人ならばやらなければいけません。社会生活が成り立たなくなっちゃいます)。

手前味噌で恐縮なのですが、AAの本『どうやって飲まないでいるか』の"18.「気楽にゆっくりやろう」"には次のようなくだりがあります。

…たとえば、実現可能な範囲で目標を設定し、そのなかで日常の仕事を進めるようにする。その日の内に終えたい事項を予定表に並べ、ゆっくり考えてそこから半分ぐらいをはずしてみる。そして次の日にはまた新しい表を作る。…


人から認められたい、評価されたいという気持ちは誰にでもあると思います。人から頼りにされると嫌な気はしません。でも、それが動機の一番最初にきたり、度を越したりするとちょっと問題なのかも。

ゴールまでの過程を楽しみながらやれそうかな、自分のエネルギーや時間をかけて本当にやりたいことなのかな?…そうやってリストをふるいにかけていったら、そもそも「やりたいこと」が意外と少ないことを発見しました。そこからまたさらに半分に削って実行して…を繰り返して、やっと自分に見合ったペースがわかってきました。

ペースが分かってくると、適当な言い方が浮かばないのですが、自分が自分と一緒に居てラクになりましたし、なにより他人に対して腹が立つことがかなり減りました(なくなったわけじゃないよ)。つまり「まあ、自分もあの人もどっこいどっこいよねえ」と思えるようになったのです。

新しくつながってきたメンバーの話を聞いていると、「うわあ、焦ってるなあ。私も最初はそうだったけど…」と思うことがよくあります。とはいえ「そんなときはこうすればいいよ」と言うのもタイミングを選びます。相手の立場からすれば、まずは「たいへんですねえー」と相づちを打ってほしいだけで、助言を求めているわけでも、自分のやり方を変えたいわけでも無い場合が多いからです。

昔はそのあたりの見分けがつかなくて「なんだせっかくアドバイスしたのに」と腹を立てていました。そういうときは体験の分かち合いをしているつもりが、自分の言いたいことでいっぱいになっているだけだったんですけどね。相手のことを気にかけつつもハラハラしながら様子を伺えるぐらいにはなりました。もっとふてぶてしくなって、ニヤニヤしながら待つぐらいの境地に達したいものです。

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