たとえば もし

  • 2004.05.27 Thursday
  • 21:15
親がもっと私に理解があったら

父が私にやさしくしてくれたなら

母が父のことを大好きでいてくれたなら

私が食べ吐きをせずにすんだなら

 私が 太ることが恐くなかったなら

いや たぶん やっぱり

生きることは それなりに苦しかったり楽しかったりするだろう

さびしかったりするだろう

つまりは そういうこと

実家には、このかた2年以上帰っていません。

  • 2004.05.25 Tuesday
  • 18:10
いまさらカンシャク玉を投げつけたり、泣き落としや体落としを仕掛けるつもりも無いのですが、どうにも帰省のタイミングを失っております。

つい2−3年前まで、父親のことを味噌クソ言っていました。当時かかっていたカウンセラーにも、父親への怒りをぶちまけたことがあります。ひとしきり言い終わった私に、カウンセラーはこう投げかけました。

「あなたは、父親に認めてほしかったのね。」

認めてほしいだって?! とっさに私は反発しました。大嫌いな、あんな人に認めてほしいわけなんかない。母が父の悪口を私に聞かせるたびに、「じゃあ私は嫌いな人との間にできた子どもだったのか」と思っていたのに。

私は母親の同意のもとに家を出ました。酔った父親が私の布団にもぐりこんで体を触った事件があったからです。もはや安らげる家ではありませんでした。私がずっと我慢して母親の愚痴を聞いていたのに、私が出て行って夫婦ふたりになっても、別れることはありませんでした。なんだ、私のために離婚できないんじゃなかったのか。結局はひとりで生きていけない母親のことを蔑んでいました。

今はどうかというと、どうでもいいやーとまでは言いませんが、両親と適当に世間話ができればいいかなあと思っています。すでに親元を離れて久しいし、それなりに自活できるし、イヤだと言える口も腕力も身につきましたし。

ああそれにしても、親だって人間だ、とか、男だって尊敬できる人もいるって分かるまでに、どんなに遠回りしちゃったんだろう。

聞き上手な人っていいよね

  • 2004.05.24 Monday
  • 22:48
先日、カウンセラーの方にAAの資料を渡す機会がありました。

「営業」に行ったつもりが、すっかりカウンセリングを受けて帰ってきてしまいました。

「いやー、さすがに聞き上手だなあ。間の取り方が良いなあ」と感じました。

出すものを出してスッキリしたというよりは、自分の言葉が、なにか形のあるものになったようでした。これまた食べ物のたとえで恐縮なのですが、私が杵でお餅をついていて、カウンセラーが「合いの手」を入れて、それがとても上手で、いつの間にかホカホカのお餅が出来上がったような、そんな気分です。
私も、新しくミーティングに来た人に対して、ああいう心構えでありたいです。

ミーティングの雰囲気って、なんだか独特です。初めて参加して、すぐになじめる人はめったにいないし、なじめる人はかなり変わっているのではないかと思います(こらこら)。

私がミーティングに行き始めた頃、終わったらみんながソソクサと帰っていくので、とても拍子抜けしました。分かちあいって、「言いっぱなし聞きっぱなし」のことなんだろうか? 聞きたいことがあっても、アノニミティってやつがあるからダメなんだろうか?

先行く仲間を「とっつかまえてでも訊く」ぐらいの気持ちが必要なのですが、だからといって最初からそれを要求するのも酷な話です。

外見はすっかり屈強になってしまっているので、中身だけでも「とっつきやすい」人間にならなくちゃと思っているところです。

反抗期

  • 2004.05.18 Tuesday
  • 23:09
最近、AAにいて、「安らぐこと」より「腹の立つこと」が多いです。

しょせんは病人の集まりです。他人や物事やストレスへの対応が下手くそな人間の集まりです。NOひとつ言うにしても、ダメ!イヤ!の直球か、もしくは「そのような意見はAAの伝統に反するものと思われますので私個人としては賛成できかねます。」みたいな回りくどい言い方になったりします。

本人は提案や個人的な体験の分かち合いのつもりでも、ちょっと言い方が強制的かもしれないなあ、と思うときもあります(これは私も気をつけないといけないんだけどね)。

欠点が似たり寄ったりなので、お互いのツボはとっくに承知です。良ければ「分かち合い」だったり「ハイヤーパワーのおかげ」だし、悪ければ足の引っ張り合いになります。

ソリの合わない仲間なら、スポンサーでもあるまいし、ほどよく距離を置けばいいだけの話です。特定の人と意見があわなくてもAAは私にとって必要な場です。私や、私の嫌いな人がAAから去っても、AAという共同体は存在し続けます。

当たり前のことじゃん。

そう、当たり前のことです。わかっているのに、ついカッとなります。なぜでしょう。

この気持ち、実は以前にも体験したことがありました。中学生の時です。親に対して抱いた気持ちと同じなのです。

子どもの頃の私にとって、親は良いとか悪いとかの判断もできないし、そんな基準を超えた存在でした。それが物心がついてきて、「このようにあってほしいのに、私の思いを分かってほしいのに、なぜ叶わないのだろう」と、思ってきました。

つい最近になって「親だって同じ人間だったのねえ」と思えるようになったのですが、それまでは「変えたいけど、どうにもならないし、腹だたしい」存在でした。

…てなことを、心療内科の先生に話しました。「だから今、反抗期なんです。仲間から、他人を見たら神様を思いなさいとか、腹が立ったら周りの人の顔を見なさいとか、言いたいことを言ってもいいけど、その前に頭の中で5つ数えなさいって言われました。それを聞いてすごく楽になれたんです。」

先生は大きくうなずいて、「それは必要なことですよ。それに気が付いてよかったですね。いいアドバイスをしてくれる方もいてよかったですね。」とおっしゃいました。

おのれはおのれ、ひとはひと。難しいです。

せんせい、あのね

  • 2004.05.15 Saturday
  • 07:43
5月9日付の日記を読んだ彼氏から「あなたは先生に恵まれているよなあ。」と言われました。確かに、そうかもしれません。

私はこうした雑文を書くのは苦になりません。それは小学校1年生の時の先生のおかげではないかと気づきました。

担任の先生は、メガネをかけた、声の大きい女性の先生でした。叱るときは、女子でも苗字を呼び捨てにしていました。
その先生が宿題として出していたのが「作文」でした。専用のノートがひとりずつ渡されました。内容は自由ですが、ひとつだけ約束がありました。それは文章の書き出しを必ず「せんせい、あのね。」で始めることです。

記念すべき?第1作目は、「おかあさんが、いちごのサンドイッチをつくってくれた」話でした(この頃から関心があったのはやはり食べ物でした)。先生は赤ペンで大きな花マルと「おいしそうなサンドイッチですね。せんせいもたべたいな」といった言葉を添えて、ノートを返してくれました。

子ども心に、ほめられたことがよほどうれしかったのでしょう。それ以来、些細なことでも「せんせい、あのね」と書いて提出していました。「おかあさんのしらがぞめを、てつだいました。」と書いたときには、さすがに母親から「そんなことまで書きなさんな。」と嫌がられましたが。

あれが毎日の宿題だったかどうかは、もう覚えていません。だけどノートはどんどん増えていき、1年の終わりの頃には書きためたノートの数が、クラスで1、2を競うほどになっていました。

4年生の頃でしたか、デパートへ行くバスの中で、ぐうぜんに乗り合わせました。とても優しい、おばあちゃんの顔をしていました。教室で見ていた時と、顔が違うように感じました。母親が挨拶をしていました。バスを降りた後に、「少し前に、定年退職をされたんだって。」と聞かされました。

あれからすでに20年以上がたちました。

私の回復は、感情を言葉で表現することを思い出す作業でもありました。思い返せば、私は先生からどれだけの恩恵を受けたことでしょう。バイタリティあふれる先生でしたから、今でもお元気で過ごしていらっしゃるでしょうか。そう願っています。

AAには会費がありません。

  • 2004.05.11 Tuesday
  • 23:07
とはいえ、定期的にイベントや会議は行われています。当然、お金は必要です。

「サービスはいかにあるべきか?!」という議論もありますが、たいていはお金のやりくりでモメます。あっても無くてもモメます。

私も地元の集会にはオブザーバーとして出席しています。議決権は無いですがモノは申せます。この前は、あるメンバーの行いに対して、つい感情的になってしまいました。

「その会議が大事なもので、そのためにはお金を計画立てて準備しなければいけないことも分かっています。だからといって、こうしてグループの名前を黒板に書きだして、それぞれに目標金額を発表させるなんてやり方には、賛成できません!」

「じゃあ具体的にどうすればいいか言ってごらん。今まで色々なことをしてきた。献金のお願いだって、ずっとやってきたんだから。」

経験と実績には及びません。

上手に場をおさめてくれた仲間のおかげで、ノルマは設定せずに済みました。会議が終わった後もふてくされている私に、仲間がこう言いました。

「分担金が集まらないのは毎年のことだもん。それに、あの場で話しあう事じゃない。ましてや僕たちの地区だけで、どうにかできるものでもない。文書ではダメでも、顔を会わせて頭を下げれば伝わるかもしれない。地域全体に関係あることだもの、しかるべき場で事実を伝えれば、ちゃんと取り上げてくれるよ。AAメンバーだって馬鹿じゃない。」

「でも、よその地域は金額が倍だ、なんて頭ごなしに言われたらムカつくじゃん。」

「グループ数とメンバー数が比べモノにならん。」

「そう思ってるんだったら、言ってやればよかったのに。」

「分かりすぎることだから。誰が考えても分かることだから。評議員の定員数を云々言われたって、話がそれてどうにもならん。どうしたって言いたいことを最後まで言わなければ気が済まないものなんだ。だったら言わせておけばいい。」その後で、こう続けました。

「今度、まわりのメンバーがどんな顔をして聞いているか、よく見ていてごらん。面白いから。」

また、ある仲間は次のようなアドバイスをくれました。こんな私の話を聞いてくれる仲間がいるだけで、幸せだと思いました。単純ですか。

「ハイヤーパワーは他人を通して働きかけます。他人を見たら神様を思いなさい。何事も、経験と時間ですよ。」

美しい文章を書く人は、顔も美形でなければならぬ

  • 2004.05.10 Monday
  • 21:05
…というのが、私の高校時代の「本を選ぶ基準」でした。

ことに私たちの中で人気があったのは中原中也でした。
芸術家だから許せる放蕩ぶりとか、若くして肺病で亡くなったりとか、死後に才能を認められたなんていう経歴もさることながら、なによりも決め手となったのは、教科書に載っていた写真でした。帽子をかぶった、あどけなさの残る顔が、年頃のミーハー文学少女の心に強く印象付けられたのです。

当時の現代文の先生が、とても授業の上手な先生でした。みんなが退屈する頃になると、その作者の経歴を面白おかしく話してくれたものです。

なかでも、中原中也と小林秀雄が、ひとりの女性をめぐって恋敵になった話は私たち生徒の間でいちばん盛り上がりました。

小林秀雄は、私たちにはすこぶる不人気でした。彼の著作が現代文の試験によく出てくるのだけど、これが難しい。おそらく本人は「読み手に理解してもらおう」と苦心したのでしょうが、その回りくどさが余計にでも難解さを極めてしまう文章だったからです。写真を見てもオジイチャンだし、どうにも読む気がおこりません。

そこへ「フラれたのは中原中也のほうだ」と言われたので、クラスのみんなは口々に「中原中也のほうが、かわいいじゃない」「なんでー?」「どこがいいの?」と言いました(ちなみに女子高でした)。

その不満ぶりがおかしかったのでしょう。その先生は次の授業のときに、自分の本をわざわざ持ってきて、みんなに回覧させたのです。

「あのね、みなさん。中原中也は30歳で若死にしたから、若いときの写真しかないんです。小林秀雄は長生きしたから、教科書に載っているのはオジイサンのときの顔なんです。彼にも当然若い頃はあったんです。
ここに恋人の泰子さんと、中原中也と、3人で写っている写真がありますから、見てみなさい。」

どれどれと覗いてビックリ、これが、けっこうイイ男だったのです。

またもや私たちはどよめきました。先生のおかげで、この恋愛話においては「小林派」も増えました。相変わらず文章は不評でしたが。

数年後、中原中也記念館を友人と訪れる機会がありました。彼は晩年(といっても20代後半ですね)にはNHKの入社面接を受けたとあり、その頃の写真を見ました(今で言うリクルートルックか?)。
「フツーの人」の側面を垣間見て、少しガッカリしたのを覚えています。

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