悪気はないのは分かるけど、いささか困った人の話

もろもろの事情がひと段落つきましたので、書くことにします。

お付き合いをしていて、こちら側の意思がなかなかすんなりと伝わらない人がいました。
お相手は私がこれまでお会いしたことがないタイプと申しますか、とにかく想定外のリアクションをされることが多い、多い。
私もけっして機転が利くとか、要領や手際が良いタイプではないのですが、ついにある日、「悪気がないにしても、それはあまりにも不義理ではございませんか?」という仕打ちを受けてしまったのです。

このままでは相手に対して感情的になるか、あるいは私が精神的に参ってしまうかというところまで思いつめてしまい、ついにかかりつけの病院の先生に相談をしました。

「先生も、この場にいない人のことについて相談するのは言いづらいこととは思うのですが、すっかり困り果ててしまいまして」と切り出し、これまで相手とのコミュニケーションでストレスに感じたこと、世間話をしていたときにたまたま聞いた、相手の生い立ちのことで不思議に思ったことなどをひととおり聞いて頂きました。

先生からも「あくまでも疑いがある、ということですが」と前置きされたうえで、相手はアスペルガー症候群かもしれないこと、最近は関係書も多く出ているのでいくつか読んでみるように、本に書かれてあるすべてのパターンがあてはまるわけではないが、何か参考になるかもしれません、とアドバイスされました。

たしかに、すべての事柄が該当するわけではありませんでしたが、私がギョッとしたこと、あっけにとられたこと、ウッと言葉に詰まったこと、思わずムッとしてしまった出来事によーく似た行動が例に挙げられていて、調べるうちに重苦しかった頭の中が軽くなるのが分かりました。
それまでは、私に何か問題があるのではないか?私もこんなに器が小さいことではいけないのではないか?相手を思い通りにしようという昔のクセが出ているのか?と自責の念にかられていたのですが、(そのようなことも原因だったかもしれませんが)それだけではなくて、「相手に応じたコミュニケーションの取り方」を知らなかったのだと気づかされました。

(こちらのサイトの記事が読みやすかったです:東京都自閉症協会自閉症を知るアスペルガー症候群とは

病院の先生からは「相手と同じ土俵に立とう、または、相手を自分の土俵に引き入れようとすると、お互いに辛い思いをします。相手の良い面を認めて、それを生かすようにできたらいいですね」とも言われました。

で、「結局、どうすればいいんじゃろう?」と思って購入したのがこちらの本です。レビューにイラストが多く分かりやすいとあったので選んでみました。

発達障害がある人のための みるみる会話力がつくノート

当事者を対象に書かれていますが、「ああ、こういうところで相手はつまづくのか、あるいは、ばか正直に対応してしまうのか」というポイントが分かり、さらに頭の中がすっきりしました。

とくに仕事の場面ではそのつど用件の進み具合をクリアにするのが大切ですから、報告、連絡、相談事項の扱い方は、発達障害ではない人、社会人になって間もない人にも役立つのではと感じました。私も社会に出てから上司や先輩に注意されながら覚えていったことを思い出しました。

その後、当のご本人には、
  • 大事なことは文書かメールでお伝えする
  • 一つの文章は短めにする

(このあたりはビジネスマナーの基本でもあります)

  • ある程度は私がスケジュールを組まなければいけないという手間がかかりますが、一度に複数の案件を伝えないようにする
  • ここまで念を押したら失礼にあたるのではないか?と思えるようなことでも具体的に明記する
  • 自分が不快に思ったことは、信用できる人に相談をして冷静に具体的に伝える


そしてなにより、

「相手が察してくれるだろう」という期待は、しない。

…といった心構えで対処しました。

その結果、以前よりずっとスムーズに仕事が進められるようになりましたし、相手に対しても余裕をもってお付き合いできるようになりました。もともと細かい作業や根気のいる作業は得意な人でしたので、「良い面を引き立てるように」という先生からのアドバイスが実行できるように努めました。

なによりも、私のストレスが激減したのが救いでした。 対策が立てられるようになるまでには、頭が重くて気分もどんよりして、何かが北国の雪雲のようにずっとたれこめているような、上から押さえつけられているような心地がしていました。また「うつ」が再発してしまったのではないか?と思ったほどです。

それがいっぺんに軽くなったのです。まさかその人との対人関係が、そこまで私の負担になっていたとは思いもしませんでした。夫からは「ストレスの最中にいる時ってのは、案外原因が分からんもんよね。後になって気づくことが多いよ」とも言われました。

私は他人を安易に「こういう人だ」と決めつけたり、レッテルを貼るのは嫌いです。ですから、じつは以前から「もしかして?」と思う事はあったのですが、素人判断は良くないと思い、我慢していたのです。

まあとにかく、ほんとうに疲れました。もっと早くに先生に相談していれば、あんなに長い間、相手とやり取りをしていて時空がねじれるような感覚を何度も味わったり、イライラすることも無かったのに…と感じています。とにかく、人間関係を台無しにする前に事なきを得られたので、ほっとしました。

勝負師が生き残ること

あっと言う間に8月も終わってしまいました。
ここ数年、暑い暑いと言ってるうちに夏が終わっているような気がします。とくに今年は腰痛の治りが遅くて、海にも花火大会にも、そして大好きな野球観戦にも行けずじまいでした。今年の暑さは半端ではなかったので、どのみち出かけることはなかったのかもしれませんが、行けるけど行かなかったというのと、身体の具合が悪くて最初から選択肢がないのとでは気分の滅入りかたが違います。

そんな今年の夏、エアコンの効いた部屋で座ったり横になったりしながら少しずつ読んでいったのがこちらの本。

プロ野球 コンバート論 赤坂英一

タイトルに「論」とついていますが、コンバートを経験したプロ野球選手を追ったノンフィクションで、とても読みやすかったです。学生時代の部活や草野球など、実際にプレーしたことのある人が読んだらもっと面白いと思います。

現役で活躍中の選手、レギュラーを目指して奮闘する若手選手の意気込み、その選手に関わるコーチや監督の心境や現役時代の経験談がていねいな取材をもとに書かれています。世代や球団を超えて「ああ、こんなところで人と人がつながっているんだ」という、偶然とも必然ともとれる縁を感じました。

カープファンの私としては石井琢朗コーチや古葉監督(ベンチの端で、物陰にかくれるようにして立っていた訳がやっと分かりました)、それから本人への直接の取材ではありませんでしたが、高橋慶彦さんのことが書かれていたのがうれしかったです。

コンバートと言っても、そのときのチームの事情や指導陣の方針、そして選手のとらえ方によって千差万別です。自分からコンバートを直訴した選手もいますし、まったく転向する気の無かった選手もいます。ドラゴンズの森野選手があそこまでサードに思い入れがあったとは想像もしませんでしたし、小谷野選手の話には「え、スポーツ選手が、あんなタフな身体の人がそんな経験をするなんて!」とおどろき、糸井選手のエピソードには場面を想像して吹きだしてしまいました。

いちばん印象に残ったのが元タイガース/マリーンズの遠山獎志さんの言葉です。

「新しいことを始めるときは、何も無理矢理自分で自分を納得させたりすることはない。とりあえずやってみようと、そういう柔軟な姿勢、リラックスした気持ちで取り組んだらいいんですよ。ぼくは、いろんなことを経験しているうち、自然にそう思えるようになりました。そういう生き方をしてたら、自分でも驚くようなことができる、思ってもみない結果が生まれるかもしれないんだから、と」

やわらかい表現をされていますが、そこはシビアな勝負事の世界。けっして自分のタイミングや努力だけでチャンスが掴めるわけではない、厳しい現実を乗り越えてきたからこその言葉だと感じました。遠山さんは「ぼくの場合は、人に恵まれたんです。…(中略)…節目節目でいい人に出会えましたから。ぼくと同じころにコンバートされて、ひとりだけの力ではどうにもならなかったという選手も結構見てるんで、余計にそう思います」とも述べられています。選手自身の決心とチームの構想の時期がずれてしまって、日の目を見ずにプロの世界から去った人も数えきれないぐらいいると思います。

あー、やっぱり球場で観戦したくなってきた。公式戦も終盤、ホームでの試合も今月の半ばまでなんですよねえ。1試合だけでも都合がつかないかな。

野球が分からなくても笑える小説


走れ!タカハシ 村上龍

この本を図書館で借りて読んだのは、高校2年生の1学期でした。
タイトルにある「タカハシ」とは高橋慶彦さん、70年代後半〜80年代にかけて活躍した広島カープの選手で、今でも年季の入ったファンからは根強い人気があります。

以前、生粋の広島県人である夫に「いま売り出し中のカープの若い選手がおるけど、慶彦さんとどっちが人気あった?」と尋ねたら「そらもうヨシヒコよ!」と即答されました。「あの選手のファンは、若い女の子がほとんどやろ?慶彦は女子高生だけじゃのうて、クラブのママさんにまで人気があったんで!飲み屋でエエ顔しよう思うてカープの話をしたら慶彦の話で盛り上がってしもうて、こっちは空振りじゃったけえの」。いや、そこまでは聞いてないんですが。

タイトルから連想される筋書きとは違って、すべて架空のお話で、主人公もその慶彦さんではなくてごく普通の人たちです。登場人物とは直接かかわりのないところで慶彦さんが走ったり打ったりしていて、それが物語の要所になっているという筋書きです。

高校生の時もクスクス笑いながら読みましたが、今回も同じところで吹きだしてしまいました。村上龍さんの小説なので下ネタもけっこう出てきますが、野球が分からなくても楽しめます。笑えます。

雑誌に発表されたのが1983年〜85年。ざっと30年前の作品です。バブルよりももっと前、フリーター、リストラなんて言葉はまだ無かった頃で、一度就職すれば正社員として定年まで勤められる、これからも経済は成長していくものと信じていられる時代でした。

…ではありますが、登場する男性陣はどこか要領が悪くて、人生に疲れています。昔から人の悩みはたいして変わらないのか、それともさっそうとグラウンドを駆けめぐる慶彦さんを引き立てるための作者の意図なのかは分かりませんが、今回読み返してみて「うだつの上がらない男性陣」と「開き直って元気な女性陣」の対比が面白いなあと思いました。

この本を読んだ当時、私はプロ野球にまったく興味がありませんでした。

ある日、慶彦さんが実在の人物なのかどうか知りたくて、クラスメートの女の子に声をかけてみました。その前の年に日本シリーズが行われていたとき、彼女は授業中にも関わらず毎日ポケットラジオを持参しては、こっそり野球中継を聴いていたからです。ライオンズの秋山さんがバク宙してホームインした、あの日本シリーズの年です。混戦の末に敗れたときには、彼女はカープの野球帽をかぶったまま、教室のカーテンの陰にかくれて泣いていたのでした。

「タカハシヨシヒコさんって、カープの選手なの?」と聞いた私に、彼女は「おるよ!かっこいいよ!今度、巨人戦がテレビであるから、見てみて!」と目をキラキラ輝かせて教えてくれました。

…その後の話は長くなるので省略しますが、私は現在こうして広島に住んでいるわけですから、人生の転機になった一冊ということになります。

でも今に至るまで、慶彦さんのサインを手に入れられないままなんですよね。夫に話をしたら「慶彦が若手の頃は、僕の弟が勤めとった店に、よう来よったらしいでー」とのこと。残念です。

想像のつかない世界のことを考える

このブログの右側に貼り付けているサンフレのブログパーツ、しばらく空欄だったのですが、今日見てみたら試合情報が掲載されていました。プロ野球もキャンプ情報がニュースで見られるようになりましたし、春が待ち遠しいです。

さて、今年は読書の年にしよう!と勝手に決めたものの、新しい習慣はなかなか身につかず。昨日やっと2冊目を読み終えました。

悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記

旧ユーゴスラビアのサッカー紀行文かと思って手に取ったのですが、NATO空爆前後の旧ユーゴ圏の様子と、そこに暮らすサッカー選手やサポーターを追いかけた渾身のルポルタージュでした。

最初は読んでいても国や都市の場所がわからなくて、地図(2001年当時の表記なので、すでに国名が変わっているのですが)や登場人物の解説を読んでは本文に戻り、ということを繰り返していたのですが、人の名前は「なんとかビッチ」さんがあまりにも多かったので、途中で流し読みに変更。

日本で生まれて、戦争も知らなくて、日本人の中で生きてきた私には、想像してもしきれない世界がありました。

個性的なサポーターさんたちが何人か登場するのですが、なかでも印象に残ったのが、第二次世界大戦の占領下で収容所に送られ、家族を亡くし、唯一の生きがいをサッカーに求めたおじいちゃん(あの空爆でも見事に生き残ったそうです)。そして、地元クラブの過激なサポーター集団に所属することで、自分がクロアチア人であることを証明しようとした青年。日本人がイメージする「サッカーが好きな人」をはるかに越えちゃった人たちなんです。もうほんとにサッカー「しか」ない。だって、ゴール裏で飛び跳ねている威勢のいいあんちゃんたちが、有事の際には義勇軍として突撃するんですよ。もう想像がつきません。

本筋とはちょっとそれてしまいますが、私がとても共感した文章があったので引用させて頂きます。

(148〜149ページ)
日本では欧州コンプレックス丸出しのサッカー評論家がよく言う。
「Jリーグは厳しさが足りない。ヨーロッパでは試合に負けると、どんなスター選手も怖くて表を歩けないのです。サポーターが敗戦や二部落ちを暖かく迎えるなどという態度が、日本サッカーの強化を遅らせているのです」
欧州のサポーターの過激さを何の猜疑心もなく持ち上げる発想の何と貧困なことか。
社会的に抑圧されてきた若者たちの捌け口として存在するフットボールが確かにある。しかし、それは果たして幸福なことだろうか。

(中略)

旧ユーゴでは自民族の意識発揚のための代理戦争としてのフットボールがあった。
それは『文化』というよりも民族問題と密接に絡んだ業のようなものだ。「全民衆防衛制度」のおかげで、すべての青年男子が武器の扱いを知っている。だからサポーターが民兵になることは何の造作もないことだ。造作もなく民兵になるということは、造作なく死んでいくということだ。バイスたちが暴れる背景には彼らしかわからぬ哀しさが綿々と流れている。

(引用ここまで)

筆者は1994年に長良川競技場で現役時代のストイコビッチのプレーを見たのがきっかけでユーゴスラビアのサッカーに魅了されたのだそうです…が、それにしても、その熱意はどこから来るのだろう?という体当たりの取材が続きます。コソボで虐殺が起これば現地へ足を運び、NATO軍の空爆が始まればセルビアへ飛び、空爆が終われば今度は劣化ウラン弾が打ち込まれたコソボへ、そしてコソボ解放軍の残党が支配する地域まで乗りこんでいって、司令官にインタビューまでやってのけてしまいます。文庫版のあとがきを本人が書いているのだから生きて帰ってこられているんですが、読んでいて何度もハラハラしました。

私はユーゴ紛争についての知識がほとんどありませんでした。NHKのドキュメンタリー番組や、内戦を題材にした映画をWOWOWでぐうぜん見たぐらいで、空爆前に旧ユーゴ側はコソボ問題について譲歩しようとしていたことや、空爆当時Jリーグに在籍していた旧ユーゴ圏の選手たちが日本で記者会見を行ったことも知りませんでした。予備知識がないと一度読んだだけでは分かりにくいところもあるのですが、読んで良かったと思いました。この本が出版されて12年。本に登場するサポーターや選手の皆さんが少しでも穏やかに暮らせているように願うばかりです。

ストイコビッチ監督は革靴で50m先のゴールへボレーシュートした人というイメージしかなかったのですが、まさかあんなに大変な思いをしてきたとは存じ上げませんでした。グランパスの試合、見に行ってみようかなー。…もちろん、応援するのはサンフレですけどね。

今年はもっと本を読もう。

…と思って、新年一冊めに選んだ本がこちら。

I AM ZLATAN ズラタン・イブラヒモビッチ自伝

サッカーのルールはもとより、ヨーロッパの選手のこともほとんど知らないんだけど、大丈夫かな?と思っていましたが、心配無用。ひとつの物語としてじゅうぶん楽しめました。

以下、感じたことをつらつらと。
  • プロスポーツ選手に移籍はつきものだし、賞金稼ぎみたいなものと思っていたけど、想像をはるかにしのぐ厳しい世界。どのクラブも傭兵集団って感じ。みんなこういう世界で勝負してるんだなあ。
  • サッカーはポジションが決まっていないし、周りの選手がボールをよこしてくれなければ得点もできない。監督と折り合いが悪ければまったく試合に出してもらえない。そんな状況でつぎつぎと居場所を獲得していく様子が面白くてどんどん読めた。移籍をめぐっての駆け引きの描写は、まるで映画を見ているみたい。
  • 映画『グラディエーター』の例えが出てくるけど、前世はほんとにそういう職業だったんじゃないか、もしくは守護霊にそういう人がついてるんじゃないかという気がした。
  • 以前からスポーツニュースなどで名前だけは聞いていたので、実力もステイタスもあるサッカー選手なのは分かっていたけど、この自伝のせいで私のなかでは「盗んだ自転車で走りだして爆竹を投げる人」のイメージが定着。
  • ものすごい精神力と集中力で怒りと逆境をエネルギーに変えてきた人。静止すると死んじゃうような、サメみたいな人。
  • ご本人もなかなか強烈な方ですが、周囲の皆さんも、そこらの少年マンガのキャラ設定をしのぐ個性派ぞろい。とくに代理人さん。
  • 母親も生活が精一杯で余裕が無かったし、父親もしっちゃかめっちゃか。でも彼が両親のことを「でも大好きだった」と言えたのは、ご両親の言う事や行動にスジがしっかり通っていて、その背中をずっと見てきたからなんだろうと思う。

たぐいまれなメンタルと強運の持ち主なのは分かっているけど、「俺だって何とかなったぜ」と言われると自分も何とかなりそうな気になってくるから不思議。「自分は本当はどうしたいのか」がハッキリしている。他人のせいにしない。これができたら、人生そんなにヒドいことにはならないんじゃないかな、たぶん。

今年は風邪を引いてしまい、まさに寝正月となってしまったのですが、病み上がりの心と体にじわじわと効いた一冊でした。

草の花 (福永武彦)

私はけっして読書家ではないのですが、ときおり読み返す本がいくつかあります。

草の花 福永武彦 新潮文庫

この小説をはじめて手に取ったのは高校生の時でした。
当時、某社の高校生向けの通信教育を受けていたのですが、国語のテキストには、毎月いろんな方がおすすめの小説をとりあげてコラムを執筆していて、そこに紹介されていたのが『草の花』でした。
「若い時に読んだからこそ心に残る作品というものがある。これもその一つだ。もしまだなら、ぜひ今のうちに読んでほしい」というような事が書かれてありました。

その少し前にも、現代文の先生が(別の作家の本でしたが)「これは学生のころに読んでおけ。大人になって読んだら『だからどうした』としか思わないから」と、まったく同じような言い方をしていたこともあって、ならばそういうタイプの小説は今のうちに読んでおこうかと思ったわけです。

この筆者の意見は大正解でした。私もあの年頃のときに読んだから、今でも好きな作品として心に残っているのだと思います。もし社会に出てしばらくして読んだのなら、主人公の青臭さや頭でっかちなところが鼻について「そりゃあ、そういう人生の選択になるよなー」としか感じなかったでしょう。

お話は戦前から戦後にかけての日本。
主人公の汐見が自身の半生をつづったノートの内容が物語のメインで、登場する「私」は語り部の役回りです。舞台となるサナトリウムとか旧制高校など、はるか昔のように感じますが、まだそんなに前のことでもないんですよね。

70年近く前のこと、結核は私たちが思う以上に深刻な病気だったのでしょう。サナトリウムの中で、死と隣り合わせの患者は不安や恐怖、他人への嫉妬や羨望を抱えています。いっぽうで主人公の汐見はどこか悟ったような諦めたような様子で療養生活を送っていて、そんな汐見に「私」は関心を持っていきます。
手術の前、汐見は「私」に2冊のノートを読んでくれるよう言い残します。そのノートを「私」が読み進めていく形で本編は進んでいきます。

ノートは汐見の高校時代の出来事から始まります。
旧制高校ですからとうぜん男子校でして、たぐいまれな美少年の下級生が登場してきて、ギリシャ哲学の話が出てきて…という展開で、男性の方は読んでいて抵抗があるかもしれませんが、純文学ですのでそこはあくまで上品に描かれています。後半はちゃんと女性が登場します。

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今と違って、裕福な家庭か、もしくはとんでもなく頭が良くないと高校や大学に行けなかった時代とはいえ、昔の学生さんたちは、まあいっぱい本を読んでいたもんだ、真面目だったんだなあ!と感心します。
とくに汐見とクリスチャンのガールフレンドが信仰について議論を交わすくだりがあるのですが、そこまでこねくり回して考えていたら、そりゃあ疲れるでしょう。信じる、信じないなんて頭で決めるものじゃないもの。

今回読んでいて、あっ!と思ったところ。
ガールフレンドとの議論に疲れた汐見が、アパートの窓から下界を見下ろす場面があります。
窓の外には「鉄道線路が幾筋も横に走って」いて、「その向うは、街並みが汚らしい屋根屋根を並べ、工場の煙突が煙を吐き出し、海が鼠色に霞んで見え」ます。そして汐見は「僕の心も、その風景のように汚れていた」と嘆きます。

あなたの心がどうなのかはわからない。でも、あなたにはただ汚れているとしか見えない風景のなかで、その汚らしい屋根の下や工場の中で、たくさんの人が一所懸命働いて、生きているんだけどな。

主人公は「これを捨てたら自分の生きる意味がなくなってしまう」という考え方を捨て去ることができなくて、それが悲劇を招いてしまうのですが、今回この街並みの描写を読んで、真・善・美をひたすら追い求めるあまり、人間の持つ泥臭い部分を受け入れられなかったのかなあ…とも思いました。
「僕は一人きりで死ぬだろう」と独白するいっぽうで、こつこつと自らの半生を書きとめ、もうひとりの人間に託していった主人公の気持ちを想像すると、なんともせつなくなります。

こんな考え方だからうまくいかないのは分かってる⇒でも変えられない⇒自分の人生に不具合を起こしてしまった、てなことは私にもありました(私の場合はとくにメンタルにきました)。彼ほど崇高な思いはありませんでしたが、気持ちは分からないでもありません。

文体はとても読みやすく、日本語っていいなあとあらためて感じさせてくれます。高校時代に友人に文庫本を貸したときに「翻訳小説を読んでいるような文章」と感想を言われましたが、たしかにこんなふうに訳せたらどんなにいいだろうと思います。できないけど。

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タイトルの『草の花』は新約聖書の一節からとられています。キリスト教の知識があれば、物語をより深く味わえるのでしょうね。

美しい文章を書く人は、顔も美形でなければならぬ

…というのが、私の高校時代の「本を選ぶ基準」でした。

ことに私たちの中で人気があったのは中原中也でした。
芸術家だから許せる放蕩ぶりとか、若くして肺病で亡くなったりとか、死後に才能を認められたなんていう経歴もさることながら、なによりも決め手となったのは、教科書に載っていた写真でした。帽子をかぶった、あどけなさの残る顔が、年頃のミーハー文学少女の心に強く印象付けられたのです。

当時の現代文の先生が、とても授業の上手な先生でした。みんなが退屈する頃になると、その作者の経歴を面白おかしく話してくれたものです。

なかでも、中原中也と小林秀雄が、ひとりの女性をめぐって恋敵になった話は私たち生徒の間でいちばん盛り上がりました。

小林秀雄は、私たちにはすこぶる不人気でした。彼の著作が現代文の試験によく出てくるのだけど、これが難しい。おそらく本人は「読み手に理解してもらおう」と苦心したのでしょうが、その回りくどさが余計にでも難解さを極めてしまう文章だったからです。写真を見てもオジイチャンだし、どうにも読む気がおこりません。

そこへ「フラれたのは中原中也のほうだ」と言われたので、クラスのみんなは口々に「中原中也のほうが、かわいいじゃない」「なんでー?」「どこがいいの?」と言いました(ちなみに女子高でした)。

その不満ぶりがおかしかったのでしょう。その先生は次の授業のときに、自分の本をわざわざ持ってきて、みんなに回覧させたのです。

「あのね、みなさん。中原中也は30歳で若死にしたから、若いときの写真しかないんです。小林秀雄は長生きしたから、教科書に載っているのはオジイサンのときの顔なんです。彼にも当然若い頃はあったんです。
ここに恋人の泰子さんと、中原中也と、3人で写っている写真がありますから、見てみなさい。」

どれどれと覗いてビックリ、これが、けっこうイイ男だったのです。

またもや私たちはどよめきました。先生のおかげで、この恋愛話においては「小林派」も増えました。相変わらず文章は不評でしたが。

数年後、中原中也記念館を友人と訪れる機会がありました。彼は晩年(といっても20代後半ですね)にはNHKの入社面接を受けたとあり、その頃の写真を見ました(今で言うリクルートルックか?)。
「フツーの人」の側面を垣間見て、少しガッカリしたのを覚えています。

『女生徒』

高校時代に友人から薦めてもらって、いまでも大好きな短編がある。
太宰治の「女生徒」だ。

この作品は、読むたびに再発見がある。「若いうちに本を読んでおいて良かった」と思う一冊だ。今回心にとまったのは、次のくだりである。

「...本能、という言葉につき当たると、泣いてみたくなる。本能の大きさ、私たちの意志では動かせない力、そんなことが、自分の時々のいろんなことから判って来ると、気が狂いそうな気持になる。どうしたらよいのだろうか、とぼんやりなってしまう。否定も肯定もない、ただ、大きな大きなものが、がばと頭からかぶさって来たようなものだ。そして私を自由に引きずりまわしているのだ。引きずられながら満足している気持と、それを悲しい気持で眺めている別の感情と。なぜ私たちは、自分だけで満足し、自分だけを一生愛して行けないのだろう。本能が、私のいままでの感情、理性を喰ってゆくのを見るのは、情ない。ちょっとでも自分を忘れることがあった後は、ただ、がっかりしてしまう。あの自分、この自分にも本能が、はっきりあることを知って来るのは、泣けそうだ。お母さん、お父さんと呼びたくる。けれども、真実というものは、案外、自分が厭だと思っているところに在るのかも知れないのだから、いよいよ情ない。...」

ある少女の、朝起きてから眠るまでの一日が、彼女の語りで綴られているのだが、ひとたび想像しはじめると止まらなくなるところとか、この世の物事は「きれいなもの」と「きたないもの」のどちらかしか存在しない、と思っているところとか、潔癖さとか嫌悪とか、今こうしてオバサンの門口に立った現在の私が読みかえしても、「うん、わかるわかる!」とうなずいてしまう。

はじめて読んだ時の感想は、「昔の女の子も、同じようなことを考えていたんだ!」だった。でも、作者は男性なんですよね…。なんでこんなに女の子の気持ちがわかったんだろう?
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