「コンチキショウパワー」はおすすめしないという話
- 2022.10.09 Sunday
- 22:21
進学、就職など、10代は将来に大きな影響を及ぼす人生のイベントがあります。私が進路を決めるときに失敗だったのは、恨みと怒りを最優先にしたことです。
私が勉強のモチベーションにしたのは「父親への怒り」でした。
「女は勉強しなくていい。利口になったら男に口ごたえをするようになる」。通信簿を見せた私に、父は言い放ちました。小学校一年生の一学期の時です。昭和ヒトケタ生まれで封建的な土地で育った父は、その価値観が差別だという自覚すらなかったのでしょう。
父は仕事の関係で不在がちだったこともあって、物心ついた時から私の父への印象はたいへんネガティヴなものでした。私の勉強の目的は、とにかく父親を見返すこと。父親への反抗心がエネルギーだったのです。
私は地元の公立高校に進みました。一浪はしたものの、地方の国公立大学ならなんとかなりそうな学力でした。調べていくうちに夜間部を設けている大学があることや、大学の授業料減免制度を知り、働きながらであれば私でも進学できるメドが立ちました。
当時はバブル期だったおかげで、夜間大学に通うことが条件でも、さほど苦労することなく就職できました。勤め先の先輩方の多くは、私の勉学を応援してくれました。あの時の周りの方たちの好意には、感謝してもしきれません。
一人暮らしを始めるためのお金は、母がへそくりから用意してくれました。
新居のワンルームに大の字に仰向けになって天井を眺めて、込み上げてきたのは安心感よりも脱力感でした。もう酔っぱらった父の怒号や愚痴を聞かなくて済む!
大学の同級生の中には5月の連休を過ぎた頃にホームシックにかかる子がいましたが、私にはその感覚がさっぱり分かりませんでした。
私は学びについて、あまりにも「知らないことを知る喜び」、「間接的にでも人や社会の役に立ちたいという思い」をないがしろにしてしまいました。結果、学んだ内容をまったく覚えていません。
私は父親のせいで過食嘔吐をするようになったと思い込んでいました。ならば、親元を離れ自活できるようになり、「女は勉強しなくていい」と言った父に反抗して自腹で大学を卒業したのだから、問題は解決したはずです。もう過食嘔吐をする必要はないはずです。
でも、止まりませんでした。ただただ過食嘔吐は深刻さを増していきました。恨む対象が消えた日々を、どう生きて行ったらよいか分からなかったのです。私の20代の時間とお金は、過食嘔吐とダイエット、うつと、それを紛らわせるための娯楽に費やされました。
30歳を過ぎて自助グループに出会いました。行きつ戻りつしながら長い時間をかけて、生きることや考えることの根っこを、「恨み」から別のものに置きかえていくことができました。
かつての私のように、怒りを原動力に勉強なり仕事を頑張る人がいるかもしれませんが、私の経験からしておすすめしません。あまりにも余分なエネルギーを使うし、達成しても満足できないし、自分の考え方が歪んでしまうからです。
さて月日は流れ、父は認知症になりました。
母の話によると、自力でトイレには行けるものの、記憶力がすっかり衰えたそうで、お医者さんから目の前で聞いたことも端から忘れてしまうそうです。夏の盛りに「年末だから散髪に行かなくてはならん」などと繰り返していたとか。
もしかしたら、私にしでかしたあんなことやこんなことも忘れているかもしれませんね。
現実の世界で父親が死んでも、私の脳の中で父親の記憶は残ります。だからこそ、父が死ぬ前に自助グループや医師の助けを借りて、距離的にも経済的にも父から離れて、精神的にも「どうでもいい存在」に落としこめてよかったと思っています。
今の私は、私が心地良いと思える人たちを知っているし、今日と明日をどうマネージメントできるかは私が決められるからです。
私が勉強のモチベーションにしたのは「父親への怒り」でした。
「女は勉強しなくていい。利口になったら男に口ごたえをするようになる」。通信簿を見せた私に、父は言い放ちました。小学校一年生の一学期の時です。昭和ヒトケタ生まれで封建的な土地で育った父は、その価値観が差別だという自覚すらなかったのでしょう。
父は仕事の関係で不在がちだったこともあって、物心ついた時から私の父への印象はたいへんネガティヴなものでした。私の勉強の目的は、とにかく父親を見返すこと。父親への反抗心がエネルギーだったのです。
私は地元の公立高校に進みました。一浪はしたものの、地方の国公立大学ならなんとかなりそうな学力でした。調べていくうちに夜間部を設けている大学があることや、大学の授業料減免制度を知り、働きながらであれば私でも進学できるメドが立ちました。
当時はバブル期だったおかげで、夜間大学に通うことが条件でも、さほど苦労することなく就職できました。勤め先の先輩方の多くは、私の勉学を応援してくれました。あの時の周りの方たちの好意には、感謝してもしきれません。
一人暮らしを始めるためのお金は、母がへそくりから用意してくれました。
新居のワンルームに大の字に仰向けになって天井を眺めて、込み上げてきたのは安心感よりも脱力感でした。もう酔っぱらった父の怒号や愚痴を聞かなくて済む!
大学の同級生の中には5月の連休を過ぎた頃にホームシックにかかる子がいましたが、私にはその感覚がさっぱり分かりませんでした。
私は学びについて、あまりにも「知らないことを知る喜び」、「間接的にでも人や社会の役に立ちたいという思い」をないがしろにしてしまいました。結果、学んだ内容をまったく覚えていません。
私は父親のせいで過食嘔吐をするようになったと思い込んでいました。ならば、親元を離れ自活できるようになり、「女は勉強しなくていい」と言った父に反抗して自腹で大学を卒業したのだから、問題は解決したはずです。もう過食嘔吐をする必要はないはずです。
でも、止まりませんでした。ただただ過食嘔吐は深刻さを増していきました。恨む対象が消えた日々を、どう生きて行ったらよいか分からなかったのです。私の20代の時間とお金は、過食嘔吐とダイエット、うつと、それを紛らわせるための娯楽に費やされました。
30歳を過ぎて自助グループに出会いました。行きつ戻りつしながら長い時間をかけて、生きることや考えることの根っこを、「恨み」から別のものに置きかえていくことができました。
かつての私のように、怒りを原動力に勉強なり仕事を頑張る人がいるかもしれませんが、私の経験からしておすすめしません。あまりにも余分なエネルギーを使うし、達成しても満足できないし、自分の考え方が歪んでしまうからです。
さて月日は流れ、父は認知症になりました。
母の話によると、自力でトイレには行けるものの、記憶力がすっかり衰えたそうで、お医者さんから目の前で聞いたことも端から忘れてしまうそうです。夏の盛りに「年末だから散髪に行かなくてはならん」などと繰り返していたとか。
もしかしたら、私にしでかしたあんなことやこんなことも忘れているかもしれませんね。
現実の世界で父親が死んでも、私の脳の中で父親の記憶は残ります。だからこそ、父が死ぬ前に自助グループや医師の助けを借りて、距離的にも経済的にも父から離れて、精神的にも「どうでもいい存在」に落としこめてよかったと思っています。
今の私は、私が心地良いと思える人たちを知っているし、今日と明日をどうマネージメントできるかは私が決められるからです。
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