夏バテしてます

お盆を境に、天気は曇り空とにわか雨が続いています。さすがに猛暑は一段落でしょうか。

自助グループの仲間から「夏の疲れがどっと出てくる時期だから、お互い体調に気をつけましょうね」と言われたばかりなのですが、昨晩は熟睡できず、不快な夢を見ました。疲れが溜まっているサインです。

子どもの頃から、こういう時に見る夢の内容は決まっています。

学校に遅刻する

歩いても歩いても目的地に辿りつけない

現実ではすでに卒業したはずなのに、授業やテストを受けている

出先から会社へ電話しようとするのに何度もボタンを押し間違える

以前の職場でタダ働きさせられている、などなど。今回もそのパターンでした。ハッと目が覚めて、よかった、夢だった……と全身の力が抜けました。

摂食障害がおさまって10年以上経ちますが、心の奥底には「うつっぽいもの」がひっそり残っています。じっと静かにしておいていただきたいところ。

物心ついて40年以上、自分の性格のリズムはだいたい分かっているので、体調が悪いときは悪いなりに過ごして待つようにしています。ジタバタしません。

現時点では

精神的な落ち込みはまだない

食欲が急に増したりもしていない

ただし、熟睡感がないかも

というところです。

しかし、風邪や体調不良が続けばメンタルに影響します。

とりあえずひと休みする。

とりあえず頼めるものは他人様にお願いする。

優先順位がつけられるならつけていいけど、それも面倒くさいのなら、とりあえず手に取ったものから片付ける。

とりあえず3分だけ、1ページだけやってみる。後のことはまた考える。

とりあえず出勤する。

昔は完ぺき主義、というよりも「ええかっこしい」かな?そのために自分自身を苦しめたり、事を余計にこじらせて周りの人に迷惑をかけたりしていました。この「とりあえず」の考え方ができるようになって、ずいぶん楽になりました。

今年も残暑が厳しそうです。なんとか乗りきれますように。

春こそマイペースで

お彼岸を迎えましたが、こちら広島市内は晴れたり曇ったり雨が降ったりと、不安定なお天気が続いています。そして、寒いです。近所の川沿いの桜のつぼみはまだ固く、開花予想では来週には咲くそうなのですが、そう聞いてもピンときません。

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うつがひどかった頃は季節の移り変わりを感じる余裕などありませんでしたが、しかし、春から初夏にかけての時期は嫌でした。とくに春がいちばん嫌いでした。

日が長くなって、暖かくなって、花が咲き始め、新しい生活を迎える人がたくさんいて……そんななかで、自分だけが取り残されたような、追い詰められたような気持ちになっていました。

今はそのような強迫観念はなくなりましたし、道端に咲いている花を見つけて素直にきれいだな、可愛らしいなと感じられるようになりました。しかし、やはり、春は苦手です。

腰痛持ちの人が朝起きるときに急に起きあがったら腰に悪いように、暖かくなったからというだけで焦らない。ゆっくり動き出せばいい、と考えています。

昨日は肌寒い一日でしたが、自助グループのミーティングに行くことができて、良い気分転換をして帰ってきました。

ここ数日は熟睡できたりできなかったりが続いています。あくまでも私の場合なのですが、睡眠不足と“余計な”食欲がリンクしています。「やるべきこと」のハードルをぐーっとさげて、必要最低限のことを淡々とこなして、エネルギーがたまるのを待とうと思います。

自分の感情をたしかめる

慎重に考えて行動したからうまくいった時もあれば、じっくり考えていたらタイミングを逃してしまった時もある。

まずは行動よ、と実践してみたらうまくいったこともあれば、やはりもっと策を練っておくべきだったと反省させられたこともある。

気が進まないけれど人からアドバイスされてその通りにしてみたらだんだんやる気が出てきたこともあるし、
ああ、やっぱり自分が納得してからにするんだった、でもどこにも文句の言いようがないし……とがっくりきたこともある。

相手も人間、いつでも誰とでも100%うまくいくコミュニケーションの方法なんてない……こんな当たり前のことが、いい年になるまで分かりませんでした。
でもそれが実感できてから、人と付き合うのがぐっと気楽になりました。

それともうひとつ。
いま心がけているのは、 自分はどうしたいと感じているのか、本音をしっかり自分自身に問いかけることです。

世の中、思いどおりにできることのほうが少ないですが、「それでも自分はどうしたい?どう感じている?」と胸に手を当てて確かめるのは私にとって大切なのです。

人からよく見られたいとか、他の人から特別と思われたいという気持ちが行き過ぎていないか?

そのような気持ちは誰にでもあるでしょうし、それ自体が悪いとは思いません。要は程度の問題です。

私には相手の顔色を伺い過ぎるという癖がありました。物心ついた頃から。

摂食障害に苦しんでいた10代から20代は、ほぼすべての行動の基準が「相手に嫌われないだろうか」「相手は私を特別な存在としてみなしてくれるだろうか」でした。
それが一番の動機にあって起こした行動は、ますます過食の症状を進行させ、自分の心も身体も傷つけてしまいました。

どうしたって批判されるときはされるし、地雷を踏むときは踏んでしまうし。

そんな時はやっぱり落ち込みます。でも、100%うまくいく方法なんてない、自分の本音をたしかめる……この2つのことが納得できてからは、昔ほどは引きずらずに済むようになりました。

「それでも自分はどうしたい?どう感じている?」

この言葉は、私の相談事にのってくださった親しい先輩メンバーから頂いたアドバイスです。
私の理解するハイヤーパワーからの言葉でもあると受け止めて、これからも生き方の指針のひとつとして守っていきたいです。

ほどほどの距離

晩ごはんの片付けも終えて一息ついているところへ携帯電話が鳴りました。
年下の知人からでした。

しばらく相手の話にうなずいていたのですが、なかなか電話をかけてきた用件が聞けずプライベートな話ばかりで、その内容が深刻なほうへと進んでいきます。なんだか雲行きが怪しくなってきました。

相手が感情的になっている場合は話を打ち切ると逆効果なのですが、そんな様子でもなさそうです。彼女の話がちょっと途切れたすき間をついて、あえて話題を変えてみました。

これがふだんから顔を合わせている自助グループのメンバーであれば、本人が落ち着くまでそのまま話を聞くように努めるのですが、こちらの知人とは1年近くもご無沙汰しています。着信があったときも、メールアドレスも交換しているのにもかかわらず、メールではなく直接電話をかけてくるとはいったい何事だろう?と思ったぐらいです。

このまま相手の悩み相談を聞き続けていると何らかの形で意見を求められるような気がしました。でも長い間会っていない人間が軽々しく答えるような内容ではありません。

そして、彼女の話を聞いていてひっかかったのは、「○○さんからこう言われたんですけど、××さんからはこう言われたんですけど……」という言葉は出てくるものの、そうした助言を踏まえて、じゃあ自分はどうしたいのか?という意見がさっぱり出てこなかったことです。
……おつきあいのあった頃から、彼女にはこのような傾向がありました。

話題を変えたついでに、やんわりと相手に質問してみると、相談するべき適当な立場の方が彼女にはちゃんといらっしゃることが分かりました 。ならばなおさら私が出しゃばるべきではありません。
つまり、私に相談したいというよりは、その人に相談しづらかったのでしょうね。「こういう時こそ、まずはその人に連絡をとったほうがいいと思うよ」と伝えて、相手が心から納得していない気配を感じつつも会話をおさめました。

電話を切った後で、私自身、過食がひどかった頃に彼女と同じことをしていたのを思い出しました。 当時、共通の趣味を通じて知り合ったというだけの人に対して、とってもシリアスな相談事をしたのです。
十中八九、相手はドン引きしたんでしょう。それきり、相手からいっさいの連絡が途絶えてしまいました。
また、相手に過剰に適応しようとして、人の顔色を伺い過ぎて体調を悪くしたことが何度もありました。

あるいは、昔の私であればもっと親切に彼女に接しただろうとも思いました。人の役に立ちたいとか、人から頼りにされてうれしいとか。
今でもそういう気持ちはあります。でも、昔は相手との距離を考えることなく、来る者拒まずで受けていましたので、結果として相手に振り回されたり、「え、せっかく時間と頭を使ったのに!」と腹を立てたりしていました。
その人との関係の深さ、浅さに応じてコミュニケーションを加減出来ないという点では、彼女となんら変わりはなかったのです。

かつて私は、とにかく「お近づきになる」ことが人とコミュニケーションを取ることだと思い込んでいました。
私にとっての人づきあいとは、お近づきになりたいという意識よりも、他人とほどほどの距離を持つ、キープし続けるという意識を持つほうがずっと重要なのです。それに気づかされたのは、自助グループに通い始めて様々な経験をして、かなりの年月が経ってからのことでした。

今でもバランスの良い距離の取りかたができているのかは分かりません。グループに来て日の浅いメンバーからは素っ気ない印象を与えているかもしれませんし、逆に相手のテリトリーに不用意に踏み込んで不快な思いをさせているかもしれません。それを恐れていたら引きこもるしかなくなりますから、試行錯誤しつつ相手との「ほどほどポイント」をつかんでいくしかないのかなと感じています。

そんなことを考えさせられた、一本の電話でした。

納得するタイミング

7、8年ぐらい前、週末を利用して東京まで出かけたときのお話です。

おのぼりさんよろしく街をぶらぶらしていました。ぶらぶらと言っても都心の週末なので、それはもう、ものすっごい人、人、人…で、ゆっくり歩いてなどいられません。

人の流れにまかせて歩いていたら、たまたま、あるデパートにたどり着きました。ファッション雑誌には必ずと言っていいくらい名前が載っているデパートです。
人混みにも疲れたし、ちょっと見てみようかと思い店内に入りました。

店員さんに声をかけられない程度の距離を保ちながら、婦人服のフロアを歩いていたところ、私の目の前をひとりの若い女性がスーッと通り過ぎていきました。

コメディ映画やドラマで、男性が美女に出くわして、ポカーンとした表情で女性を目で追うシーンがありますよね?はたから見れば、私もまさにそのような感じだったでしょう。

その女性はお見かけしたところ私より年下のお嬢さんで、失礼ながらとびきりの美人というわけではありませんでした。服装も派手ではなく、それどころか上下ともシンプルなデザインの黒っぽい衣装でした。薄化粧で、髪もキャビンアテンダントさんかバレリーナみたいに、きっちりとまとめていました。

私がはっとしたのは、そのプロポーションの良さです。
頭が小さくって、手足がもう、うらやましいくらい長い。背が高くてほっそりとしていたけれど、不自然なヤセ方はしていません。

なにより、歩く姿がとても美しかったのです。背すじや首がすっとのびて、頭や身体がブレることなく、流れるような歩き方でした。その動きが自然にできていて、自己流で気をつけてやっている、というレベルではありません。もしかして、モデルかダンサーか、身体表現をお仕事にされている方なのかな、と想像しました。

いやいや、ここが東京だから、バイアスがかかっているのかもしれん、と思い直してみたのですが、やっぱり私の地元ではなかなかお見かけしないタイプの人だよね…と感心しつつ、しばし立ち止まって後ろ姿を見つめてしまいました。

「ああいうスタイルとスキルを身につけた人がモデルとかになるんだなあ」と納得しました。「そりゃあ、私がたとえ10kgヤセたって、だめだわ」。

そのころ、私はミーティングや通院のおかげで過食嘔吐もおさまって、腰痛対策で始めたトレーニングが思いのほか面白くて、ジムに熱心に通っていた頃でした。
筋トレにせっせと励んでみて、私は骨太で筋肉質なタイプで、どうがんばってもきゃしゃな体型にはなれないことがようやく分かったのです。

10代の頃の私は、努力すればモデルのような体型になれる!やせさえすればオーケー!とかんたんに考えていました。それができないのは自分の意思と努力が足りないせいだと。

でも、仮にその10代の頃に、あの日と同じ状況になったとしても…お人形さんのようなプロポーションの女の人を見たとしても…「人それぞれよね」とあきらめられただろうか?

たられば、ですが、それは難しかっただろうと感じます。

ダイエットが面白くて仕方ない頃だったら、「私もがんばろう!」と発奮しただろうし、あるいは「ふん、私だってなれるわ」とやっかんでいたかもしれません。

食べ吐き真っ最中の頃であれば「どうせあの人だって、かくれて吐いているに違いない」と毒づいていたことでしょう。

トレーニングで身体の変化を実感したあのタイミングだったからこそ、人それぞれに健康的な、ふさわしい体型があると納得できたのではなかろうか、と思うのです。

やっぱり物事にはタイミングがあるのかな〜と感じています。そう思いながら、日々のミーティングで自分の体験を話すようにしています。変わるときにはコロッと変わったりするんですけどね。

余談になりますが、それから何年か後、海外旅行先で欧米人の体型を間近に見て、同じことを感じました(あの頭の小ささ、腰骨の位置の高さといったら!)。

自分の身体の特徴をいさぎよく受け入れて、その時の自分なりに体調を整えることが大事なんだと思います。

さて、今日も寝る前にちょこっと腕立て伏せをやってみましょうかね…。

お弁当の思い出

寒中お見舞い申し上げます。相変わらず遅筆で更新もままならないブログですが、今年もよろしくお願いします。

今晩のことでしたが、何の気なしにテレビのチャンネルを変えたら教育テレビ(今ごろはEテレと言うそうですね)で若い子向けのバラエティ番組をやっていて、珍しさもあってそのまま見てしまいました。

本日のテーマは「お母さんの手抜き弁当」。
当然ながら番組では女子高生(つまり娘)の目線で母親のお弁当を面白おかしく語っていくのですが、私からすれば彼女たちの母親とほぼ同世代なわけで、自然と親御さんの立場に寄って見ていました。なかにはケンカをしたか、お弁当を食べ残したかが原因で、娘に対して弁当箱にロールパン1個を投入するだけという抗議行動を長期間実行したお母さまもいました。やるなあ。

そのほかの手抜き弁当の中身も、さすが全国放送で紹介されるだけあってなかなかにユニークで、「そうよねえ、キャラ弁なんか作るのも、幼稚園のうちよね。根気が続かないもの」とちょっと安心しました。

私の場合はどうだったかと思い返してみれば、母が作るお弁当は凝ったものではなかったし、おかずのパターンも決まっていたけれど、たとえケンカをしたからといって、お弁当や日々の食事で報復されたことは小さい頃から一度もありませんでした。母親は成長期に戦後の食糧難を過ごしてきた世代だったので、我が子にはひもじい思いをさせたくなかったのでしょうが、番組を見ながら「大人の対応をしてくれていたんだなあ」と思いました。

ただ、私が高校生の頃、今日のテレビでインタビューに応じていた子達の頃には、すでにダイエットに執着していたので、せっかく母が持たせてくれたお弁当の中身をこっそり捨てて、さも全部平らげたようにしてカラの弁当箱を持ち帰るということをしょちゅうやっていました。本当に悪いことをしました。

その高校時代もとうに昔のことになってしまいました。「いやー、私も20代半ばで結婚してたら、今ごろ高校生の子供がいるかもしれないのか。どうやって扱ったらええんやろ」と言ったら、夫から「そりゃあ高校生がいきなりお腹から出てくるわけじゃないんだから。小さい時から育てるんじゃけ、慣れよ、慣れ」と呆れられました。

最近ふと思うのが、あと何年かしたら、私が関わっている摂食障害の当事者グループにも、私と親子ぐらい年の差の離れた若い人がやってくるのかもしれないな、ということ。私は今後子育ての経験をするかどうかは分からないし(こればかりは授かり物ですしね)、必要以上に気張ることもないのだけど、「こういう年の取り方もあるんだよ」っていうところを見せられるようでいたいと感じます。身体は放っておいたら老化するけど、精神は自分で律していかないと成長しませんもんね。

やりたいことの取捨選択

過食の症状が落ち着いてしばらく経った頃、やみくもに目標やスケジュールをたてまくったことがありました。いままでの病気の時期がムダに思えてきて、過ぎてしまった時間と使えたはずのエネルギーをいっぺんに取り戻したかったのです。新しいノートを買ってきて、それまで病気のためにできなかったことや新しくやりたいと思い立ったこと、将来の目標からその日のうちに片づけてしまいたいことなどをどんどん書き出していきました。

実行できたのは、わずかしかありませんでした(それでもミーティングに参加し続けたことと、ジム通いが5年以上も続けられたことは良かったです)。体力が回復していなかったせいもありますが、いちばんの原因は現実に使える時間や自分の身の丈を考えずに用件を詰めこみ過ぎたことでした。

思い返せば学生の頃から計画を立てることは好きでした。それも、やりたいことというよりかは「やらなくちゃ、しなくちゃ」と何かにせかされていたかのように。ひとたび立てた計画は何としてでも達成すべきと思いこんでいました。

「途中でくじけてしまったけど、完ぺきにできなかったけど、そんな自分もOK、受け入れましょう」というようなアドバイスを本で読んだことがあったので、そんなものかと発想の転換をはかったりもしました。自己嫌悪におちいってヤケになるよりかはましでしたが。

しかしある時、「どうも物心ついたころから、そして大人になってからも、何度も何度も同じパターンを繰り返している」と気がついたのです。「そんな私でもオッケー」と思うだけではなくて、もう一歩踏み込んで、胸に手をあてて自分の行動や動機を確かめたほうがよいのではないだろうか?

たとえば、私はストレス解消も兼ねてジョギングやウォーキングをしています。計画通りにメニューをこなしていて、膝や腰に違和感を感じたとします。

「努力している私を受け入れよう!少し休んでまた走り出せばいいや!」と思い、休養をとって再開します。その後うまくいけばいいのですが、もし故障を繰り返すようであれば「こんな自分でもオッケー、受け入れよう」だけでは、いずれ走るのが嫌になるでしょう。致命的な怪我をしてしまうかもしれません。自分の身体を大切に扱う人であれば、目標や練習メニューが私の体力に合っていないのかも?私の走り方が脚に負担をかけているのかも?と考えます。痛みがおさまらなければ病院に行って診察も受けるでしょう。

「自分の意思で決めたこと」には、不具合を感じても無理やりにでも押し通そうとするところが私にはあったのです。自分で決めたことは自分でコントロールできるはずだと思い込んでいる限りは「こんな私じゃダメだ」とネガティブになろうが、「こんな私でもオッケー」とポジティブに考えようと努力しようが、それは車を運転していてハンドルを右に切るか左に切るかの違いのようなもので、まずは自分が安全に運転できるよう速度を落とすのが賢明です。いっそエンジンをとめて休息したほうがいいことだってあるかもしれません。

今は「本当に自分がやりたいことなのか?」を一番に考えるようにしています(当たり前ですが、家賃の払いこみとか公共料金の支払いとか、あいさつをするとか、約束したことは守るとか、そういう事柄はいくら自分が気が向かなくても、大人ならばやらなければいけません。社会生活が成り立たなくなっちゃいます)。

手前味噌で恐縮なのですが、AAの本『どうやって飲まないでいるか』の"18.「気楽にゆっくりやろう」"には次のようなくだりがあります。

…たとえば、実現可能な範囲で目標を設定し、そのなかで日常の仕事を進めるようにする。その日の内に終えたい事項を予定表に並べ、ゆっくり考えてそこから半分ぐらいをはずしてみる。そして次の日にはまた新しい表を作る。…


人から認められたい、評価されたいという気持ちは誰にでもあると思います。人から頼りにされると嫌な気はしません。でも、それが動機の一番最初にきたり、度を越したりするとちょっと問題なのかも。

ゴールまでの過程を楽しみながらやれそうかな、自分のエネルギーや時間をかけて本当にやりたいことなのかな?…そうやってリストをふるいにかけていったら、そもそも「やりたいこと」が意外と少ないことを発見しました。そこからまたさらに半分に削って実行して…を繰り返して、やっと自分に見合ったペースがわかってきました。

ペースが分かってくると、適当な言い方が浮かばないのですが、自分が自分と一緒に居てラクになりましたし、なにより他人に対して腹が立つことがかなり減りました(なくなったわけじゃないよ)。つまり「まあ、自分もあの人もどっこいどっこいよねえ」と思えるようになったのです。

新しくつながってきたメンバーの話を聞いていると、「うわあ、焦ってるなあ。私も最初はそうだったけど…」と思うことがよくあります。とはいえ「そんなときはこうすればいいよ」と言うのもタイミングを選びます。相手の立場からすれば、まずは「たいへんですねえー」と相づちを打ってほしいだけで、助言を求めているわけでも、自分のやり方を変えたいわけでも無い場合が多いからです。

昔はそのあたりの見分けがつかなくて「なんだせっかくアドバイスしたのに」と腹を立てていました。そういうときは体験の分かち合いをしているつもりが、自分の言いたいことでいっぱいになっているだけだったんですけどね。相手のことを気にかけつつもハラハラしながら様子を伺えるぐらいにはなりました。もっとふてぶてしくなって、ニヤニヤしながら待つぐらいの境地に達したいものです。

木の芽どき

今日も天気が良かったので、昼休みに外へ出てみました。

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日ざしが少しずつ強くなっているように感じます。早いもので来週はお彼岸です。

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今年は桜の開花も遅くなりそうです。

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イイ天気ダナーなんて言いながらのんきに散歩に出かけている私ですが、20代後半からの数年間は、春から初夏にかけての季節が大大大っ嫌いでした。

こんなに晴れてるのに…みんな新しい生活を始めているのに…新緑の季節なのに…

いったい私は何をやっているんだろう?と落ち込んでいました。

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元気ハツラツな人とか、木や草の若葉を見ていたら、気が滅入ってばかりいる自分のことを責められているような気分になっていました。
ただでさえ終わりかけの線香花火みたいになっている生命力を根こそぎ吸い取られそうな気がして、近寄りたくなかったのです。今でこそ野球だサッカーだとテレビのスポーツ中継を楽しんでいる私ですが、当時はそんなエネルギッシュな人たちの活躍する姿なんて、見る気も起こりませんでした。
仕事帰りの夜、お月さまを見上げたらとめどなく涙が流れてきてどうしようもなかったこともあります。

先日、自殺者数についてのニュースを、ある方がFacebookで取り上げていました。それを受けて「去年あんな震災があったのに、生かされている命だと思わないのでしょうか」という主旨のコメントがありました。
…たいていの人はそう思いますよね。

精神なり脳ミソなりが誤作動を起こしていると、そういう発想にはならないのですよ。何を見ても聞いても「生きててごめんなさい」って思ってしまうんだもの。

このブログを読んでいる方でそういう心境になっていたり、ウツウツの時の私と同じ状況の方がいないことを願いますが、もし!そうであればすぐにお医者さんやカウンセラーの治療を受けることを強くおすすめします。

けっしてあなたの存在が間違っているわけではありませんので。

「何を言ってるんだか、よう分からんわい」という人は、今日まで大過なく生きてこられたことを神様に感謝していいと思います。ほんとに。イヤミとかじゃなくて。

今の時期は、冬の日照不足や運動不足で体調が不安定になっているところへ、クラス替えとか進学とか人事異動などなど、年度末特有の忙しさとストレスで、ふだん健康な人でも疲れやすくなっている頃です。

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無理をしない、他の人でもできる仕事は頭を下げてお願いする。早めに休んだり、気分転換をするなどして乗り切りたいと思います。

アドバイスと「小さな親切大きなお世話」の境い目

ミーティングで話されたことは何があろうと絶対口外しないのが私たちの約束なのですが、今回のことはミーティング以外の場でメンバーから相談されたこと、私自身、不用意なアドバイスをしないように気をつけねば・・・とあらためて感じたので、書くことにしました。

しかし、いくらひっそりこっそりエントリーしているとはいえ、ブログ=不特定多数の人が見る場所でもあるので、状況や会話、経歴などの内容は若干変えています。

私たちのグループにコツコツと通ってきてくれているメンバー(Aさん)が、「この前、ある人から『今はパートでもいいだろうけど、いずれは一人暮らしもできるくらいに働いて自立しないといけないよ』と言われて、その晩はすごくヘコんだんですよ。もう大丈夫ですけど」と言ってきました。「今のバイトだけでも、けっこう自分ではいっぱいいっぱいで、その日はとくに疲れてたんです。そこへもってきて言われたんで」。

摂食障害や心の病気について知識の乏しい人は、ついつい悪気なく仕事への復帰を回復のものさしにしがちです。それは病気の深刻さを知らないからだし、そんな人から言われたとしても、今のAさんなら受け流せていたはず。

ところが、今回は心の病気のことや自助グループのプログラムも熟知している人から言われて、すごく「こたえた」のだそうです。

私は、私がその場にいないところでの話のやりとり(あの人がああ言ったらしい、こう言ったらしい)を聞いても、気やすく乗らないようにしています。どんな話の流れで、その会話に発展したのか分からないし、声の調子や表情も分からないし。

Aさんは「誰が」そんなアドバイスをしたのか、自分からは言いませんでした。たぶん私も知っている人だろうな・・・となんとなく見当がついたのですが、あえて問いませんでした。

Aさんには日ごろから個人的に親身に相談に乗っている自助グループのメンバー(Bさん)がいます。Bさんとは定期的に連絡は取っているのですが、なにぶんBさんは県外に住んでおられるので、もしかしたらAさんは今回の件をまだ先方に打ち明けていないのかもしれない、と私は思いました。

「仕事やお金の問題は大切だから、Bさんや主治医に相談したほうがええよ」
「サラッと受け流しときなさい、で済まされそう」
「でも、たとえ一晩でも、落ち込んだんじゃろ?そういう心の浮き沈みは信頼できる人に話したほうがええよ。ずっとAさんのことを見とる人じゃったら、ヤバイ時にはちゃんと助け舟を出してくれるよ。話したうえで『受け流せ』って言われたら、そうかー、って思えばええし」
と、他人にゲタを預けるようなことを言って(^^;)、私はその話題を終わらせました。

もし、Aさんがパートからフルタイムへ勤務時間を変えようと思ったら、今の職場では無理なので転職しないといけません。
たとえ過去に病歴もなくて、現在も心身ともに健康そのものの人だって、転勤や転職はかなりのストレスになるはず。ましてやアルコール依存症にしろウツにしろ摂食障害にしろ、みなさん、いや、私も含めて心がとっても過敏!(傷つきやすいとか繊細などとはあえて言いません)なのです。それに、同じ病気でも人それぞれ回復のペースは違います。復職ひとつとってもタイミングというものがあるのです。

Aさんにアドバイスをした人に対して「余計なお世話かも」とも思ったし、もしかしたらアドバイスをしたご本人こそが「仕事や経済的自立」にすごーくコダワリを持っているのかもしれない。いや、ほんとに軽ーい気持ちで言ったのかもしれない・・・と、あれこれ考えてみても、私がその人に対してとやかく言う立場ではないですし。

後日、Aさんには「私もあのあと考えてみたけど、もし今後転職するなら、まずはBさんや主治医に相談したうえで、あなたが決断を下したほうがいいと思う。それから、今回のことは、なぜそのアドバイスに、あなた自身がそこまで動揺したのかを、Bさんとじっくり話してみたらどうかなあ。蒸し返しになったらごめんね」というような内容のメールを打ちました。

数日して、Aさんからは「ちゃんとBさんにも病院の先生にも話をしました」と返事が来ました。どのような答えが返ってきたかはここには書きませんが、やはり的確なアドバイスでした。

同じ人に同じ言葉をかけたとしても、その人の心の状態が良い時と沈んでいる時では受け取りかたが違います。どうしたって誤解を受けるときには受けます。
だからこそ、ほんとうに相手の立場を思いやっての行動なのか、それとも自分がそうしたかったからやっただけなのか、じっくり考えて物を言うようにしないといけないと思いました。

メールを下さったかたへ

先日、本館のホームページを見てメールを下さった方がおられたのですが、返信を差し上げたところエラーとなってしまい届きませんでした。
何度か試しましたが、同じ結果でしたので、プライバシーに配慮したうえでこの場でお返事させていただきます。
ごらんになっておられたら幸いなのですが。

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こんにちは。

携帯にメールを送っても差し支えない時間にお返事できず、申し訳ございませんでした。

私は30歳になるまで、「どうせこのままズルズル行くんだわー」と思いながら深酒や過食嘔吐が止められずに過ごしていましたので、たいそうなことは申し上げられません。

いま言えることは、続けるか、やめるか、そのどちらかしかないということです。
どちらの人生を選ぶかは、その人の自由です。

私は、体重へのとらわれや過食嘔吐のために自分の生活がマネージメントできなくなってしまっていることにうすうす気づいているのだけど、でも、これがないと自分が自分ではなくなってしまうのではないかというような、非常に矛盾した感覚がありました。

止めたいと思いつつ、いっぽうで何とも言えない不安や恐れがあり、「こんなんだったら、元の生活のほうが良かったかなー」とも思ってみたり。これまでの時間の使い方、人とのかかわり方やものの考え方を変えることへの恐さは、すぐには消えませんでした。

でも病院の先生に話を聞いてもらったり、自助グループに通い続けることで少ーしずつ、ほんとに少しずつ変わっていくことができたかなあ・・・と思っています。
で、気がつけば10年経っていました。生きてます。自分ひとりでは決してできなかったことだと思っています。

自助グループも、ひとつの方法として利用していただけたらと思います(強引に勧誘したり個人情報を記録することはありませんからご安心を)

回復には時間がかかるかもしれませんが、どなたにでも回復するための力はかならずありますので、いまは踏ん張ってくださいね。そして、いちど自助グループに(だまされたと思って (^^;) )足を運んで頂ければと思います。

ではでは、失礼します。ともすけより